海炭市叙景感想

海炭市叙景
マイマイ新子探検隊4の折、縄田陽介氏に薦めていただいてからずっと気になっていた作品。
十三の第七藝術劇場でかかっているのを知り、会社帰りにレイトショーを鑑賞してきた。
ちなみに観客は自分を含めて2名ぽっきり。マイマイ新子やREDLINEの客入りなんてかわいいもんだなあと嘆息。それは兎も角。

季節は年の瀬、町の核だった造船業が衰え、ゆるやかに変わっていく北の町、海炭市に生きる人々の悲哀をオムニバス形式で描いた作品…みたいな紹介になるんだろうけど。

まず、特筆すべきは生活感のディティール。
労働者向けの長屋、平屋のあばら屋、団地、ガス工務店、ビジネスホテル、場末の酒場、一人暮しの一軒家、プラネタリウムの操作卓…色々な舞台が出てくるけれど、その全てが住み主が生きてきた軌跡を代弁するかのごとくモノに溢れ、あるいは寒々しい。箸二膳にをまとめて洗剤をつけて洗って、コップにさしておくとか、そういう描写も濃密で、全く見飽きなかった。
…けれど、映画全体が楽しいものであったかというと、また別の話。

普通、この手の話は、日々の暮らしで見落としているような小さな幸せや発見を掘り起こして見せるのが価値だけど、『海炭市叙景』の場合、そんな優しいことはしない。
なにせ、『悲喜』じゃなくて、本当に『悲哀』しかない。
しかもオブラートにくるむこともデフォルメすることもせず、恐ろしいほどに静かに、リアルに、客観的に、事実だけを映していく。叙景とはよく言ったものだと思う。人間ドラマを描いているようで、ドラマチックな要素がただの『出来事』に徹底的に還元されている。
だから、悲哀にこそ籠もっているはずの切なさや美しさも、目を皿にして自分から探していかない限り、ほんのわずかしか垣間見られない。
相対化して観られる人じゃないと、陰々滅々として帰るだけかもしれない。

以下、5編それぞれの印象を。(ネタバレなので、Ctrl+Aであぶり出し)

●造船所に勤める兄妹の話
進水式の辺りは純粋に手順が興味深い。
思わず船に並走しちゃう非プロな行動をもって、『船が全て』の台詞に説得力を持たせようってのは無理がありすぎるなあとか、スト決行のモブのチャチっぽさはもうちょっとなんとかならなかったのか、などと、ちょっと斜に見ていたら。
失職してから、閉塞感が増していく辺りが素晴らしい。
初日の出を見た帰り、山頂駅での別れからその後の展開はもう予想できる。予想できるけど…
ここらあたりは本当にゾクゾクした。
そしてジャストタイミングでタイトル。言うことなし。
正直、ここで映画が終わってたら大満足だったと思うぐらい。

●立ち退かないおばあさんの話
整理区画にある汚い平屋の家に住み、市場で手作りの漬け物を売る老婆の日常を、ただ淡々と映す。
生活感の墓場のようなおばあさんの家がいい。おばあさんの表情から来る説得力がいい。そして何より猫がいい。
この話も切りっぱなしの方が据わりがよくて、最後に来る決着はいらなかった気がする。まあ、好みの問題だけど。

●プラネタリウム勤務のお父さんと水商売のお母さんの話
プラネタリウムは出てくるものの、むしろプラネタリウム好きにはお薦めできない。
なにせ、『プラネタリウム勤務のお父さんと水商売のお母さんの話』でいの一番に想像されるだろうストーリーがド直球でそのまんま展開。『昔は純粋で幸せだった家族が今は…』なテーマが使い古されているだけに、類型的すぎてちょっと残念な出来。回想で締めちゃうのも前の造船所の話にカブってる上に、こっちはあまりに当たり前だし…

●浄水器を売りたいガス屋さんの話
この映画のキモになる話。
とにかく加瀬亮の演技が凄い。『こんな人いるよねー』感がハンパない。
魅力や共感ポイントはおろか、夢も希望も一切ない正真正銘の一般人の演技をここまで完璧にこなすというのは、細かすぎて伝わらないモノマネに通じる趣がある。(註:褒めてます)
でも、見ていて気持ちがいい話ではない。
でも見入ってしまう。

●路面電車の運転士と息子の話
この話だけは不幸度かなり低め…で済まない人もいるか。
場末の酒場感がムズムズするほどリアル。「…こっちは飲むだけって言ってんだから勝手にフルーツ盛り合わせを頼むな! しかもホステス三人分で三つ頼むな! そして盛大に食べ残すな!」的な。
泥酔して路上で身ぐるみ剥がされた男が、手に正月の獅子頭、胸に『海炭市叙景』と黒マジックで大書きして乱入、「ジェットコースタームービーしか興味ないアホ観客全員死ね!」とスクリーンから無人の客席に毒を吐きまくるという旧劇場版エヴァを意識したパロディーを考えてみましたがどうでしょう? ダメですか。そうですか。
あと、路面電車は美しいなあと思った。これはカメラの勝利。

最後に作り手視点でちょっと思ったことを。
作品全体が『抑えた技巧』で揃えられているわりに、ギラギラした作為がディティールから覗いている感じが気になった。敢えて木訥なカメラワークはもちろん、登場人物たちがほんの少しずつ関わりを持っているとか、時系列を敢えて前後させているとか。それ自体は「おっ」と思わせるけど、ドラマ的な必然性が希薄なので純粋な技術のプロモーションになってしまっているというか。それが原作由来なのかは未読なのでわからないのだけど。

映画に限れば、不特定多数のお客さんのためというより、一部のこういう映画を褒めたい好事家を狙って上手に作ってある印象は否めない。唐突な…というより、敢えて唐突にしてある暴力シーンも相まって、生理的に全否定する人も出るだろうに、そこは最初から無視している。
真摯な芸術指向と言えば聞こえはいいし、そういう姿勢が独特の雰囲気を醸しているのも事実だけど、表通りでの真っ向勝負を最初から避けている脆弱さは、この手の『芸術映画』では避けられないものなんだろうか。それは違うと信じさせてほしいけれど。

『映画的サービス』を徹底的に干しきって、その先を浮かびあがらせようとした映画なのかもしれない。正直、エンターテイメントとしては難がある。でも、時間の無駄だったとは思わないし、観終わった後の充足感もたしかにある。
今の自分にとって消化の難しい、色々と愛憎半ばする映画だった。
万人に等しくお勧めはできないけど、観る価値は確実にあると思う。
自分はといえば…たぶんもっと先に、濾過されたシーンのひとつひとつを脈絡なく思い出すことになるんだろう。
そして、それも『映画』の楽しみであるのは間違いのない事実。

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このブログ記事について

このページは、涼元悠一が2011年1月20日 22:32に書いたブログ記事です。

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