5月27日、木曜日。
某タイトル打ち上げで、立食パーティーに参加した。
会場は隠れ家的なワインレストラン。飲み放題をいいことに、ワイングラスとチェイサーを両手に、赤やら白やらとっかえひっかえ味わい、気持ちよく半可通を撒き散らした。
二次会でビールと日本酒も入れて、気づいた時には終電間近だった。
慌てて散会し、駅に向かったけれど、モノレールはとっくに終わっていたし、十三で連絡する電車もなかった。
仕方なく、最終の鈍行に乗った。
乗客もまばらになった頃、最寄りの高架駅で降りた。
通りに人影はない。
シャツだけでは肌寒い夜気。七割方空を覆った雲が、やけにのっぺりとしている。ところどころに星が覗き、黄色な満月が高くに滲んでいる。
ペンキの書き割りのようで、どこかぎこちなく、芝居がかった夜。
ここから家まで5キロほど。
酔い覚ましにはちょうどいい、歩いて帰ろうと思った。
歩道を何歩か進んで、妙な悪戯心が頭をもたげた。
電信柱に片手をかけ、周りを一周してみた。
ぐるん、と、視点が急速に揺さぶられ、冷めてきたはずの酔いが残り火みたいにぽっと灯る。
うん、これは気持ちいい。
ルールを定めた。
『これから家までの道のりにおいて、目についた電信柱や交通標識、街路樹、その他全ての柱の類を必ず一週回すること』
二つ目の柱、今度は消火栓の赤い柱だ。
難なくクリヤー。そのままの勢いで斜めに航跡を取り、次の電信柱に近づいて……
壁と柱の間に思いっきり挟まった。痛い。
条文追加。
『ただし、物理的に周回が困難、または不可能な場合は無理に通らなくてもよい』
前方20メートルほどに電信柱、コンクリート製、支索つき。
その裏を通れるか通れないか、瞬時に見極める。よし、クリヤー、コースを微修正。
ぎりぎりで右腕を伸ばし、電柱を捕まえた。
一八〇度回り込んだところで、今度はすかさず左腕を伸ばす。
黄黒の警戒色に塗られた斜めな支索を掴み、縫い取るように回る。
勢いを一切落とすことなく離脱、さらに次の目標を目指す。
まったく、これは何なんだろう?
ヨットレースのペナルティー、艦載機のタッチアンドゴー、惑星探査機のスイングバイ。
どれでもいい、ひどく楽しいのに変わりない。
二〇ほどクリヤーしたところで、路肩に泊まっているタクシー、客待ちの運転手がこっちをちらっと見たのに気づいた。
人畜無害な酔っぱらいです。ご心配なく。
笑顔でそう訴えつつ、大通りからひとつ逸れた。
暗い道。等間隔に並んだ電柱、その日の舞台が終わり、無造作に立てかけられている大道具。
ひとつひとつ、労をねぎらう支配人みたいに、手のひらをかけて周囲を廻る。
自分があの電柱なら、どう思うだろう?
触ってくれる人はいないだろう。
建てられた時、時々の電線工事の時、そして引き抜かれる時。
後は……たまに誰かが吐く時の支えぐらいか。
それから、フレッド・アステア気取りの酔っぱらいが、町を舞台に見立てている時。
呼吸が弾み、意味のない高揚感を連れてくる。
「自分は自由だ、なんでもできる」
そう唱えただけで、自由になれる。
教えてくれたのは、リチャード・バックの本だ。
でも、本当は違う。
たとえそれが何であれ、自分に思いつかないことは、できない。
有意義なこと、くだらないこと、有益なこと、無意味なこと。そこに差異はない。
思いつきもしないことが、世界にはたくさんある。
電信柱も標識も、今まで確かに存在していた。
今まで生きてきた朝、昼、夜、何千本、何万本のそれの脇を、通り過ぎてきたはずだ。その存在さえ気にかけることなく。
いや……違う。
出し抜けに思い出した。
子供の頃、夕暮れ時、下校路。
小学校のグラウンドに沿った細い道。踏切に向かう三叉路の角、コンクリートブロックを積み上げた壁際が、車の衝突除けなのか蟻塚みたいに盛り上がっていて、そこに電柱が植わっていた。「ここを通ると楽しいよ」と言ってるみたいだった。
あの電信柱の裏側を、くるっと廻って駈け抜けた。
電信柱を捕まえた腕をいっぱいに伸ばし、体ごと勢いを乗せた。ランドセルの縁を壁に擦ったけど、そんなのは気にしなかった。
長く落ちた影法師と一緒に、後に続いてれた友達の笑い声。近くにあった料理専門学校から、なにか炒め物みたいな、いい匂いが流れていた。明日、駄菓子屋に行く約束をした。新しく入ったゲームのことを教えてもらった。インベーダーみたいだけど、敵が上から降りてきて宙返りして、一〇〇倍ぐらい難しいと言った。早くやってみたいと思った。
鮮明すぎる記憶に、戸惑う。
子供のころの下校路が、オトナの自分につながっている。
今、アルコールと夜陰とを燃料にして、同じことをしている自分。
耐えられず、笑ってしまう。
一時間ほど繰り返し、この歩き方が自然になってきた。
非日常の高揚が、単純作業に変わっていく。
何も考えなくても、一連の動作を最小限の手間でこなせる。編み物みたいに温度の低い充実感。 隙間ができた頭に、また誰かの言葉が灯った。
彼ニトッテノ幸セトハ、体ノドコモ痛クナクテ、自宅ノ近所ヲ奥サント散歩スル光景ダッタ。
これは……ああ、『散歩もの』だ。
言葉の端々は違っているかもしれないけれど、確かこんな感じだった。
彼ハ本当ニ本当ニ、散歩ガシタカッタ…
別の言葉が浮かぶ。
今度は……萩原朔太郎だ。
不思議にさびしい宇宙の果てを、友だちもなく、ふわりふわりと昇っていこうよ。
誰もいない夜道、蓄えた言葉のカケラを航跡に煌めかせながら、漂っていく酔っぱらいの探査機。
ふと、立ち止まった。
耳についていた風音が絶えて、それを自分が作り出していたのに気づいた。
今、自分が回ろうとしていたコンクリートの柱が、目の前にある。中空にめぐらした電線と腕木で、遠い満月をひっかけている。
誰もいないことを確かめてから、両腕で抱き締めてみた。
そしてまた、何気ない風に歩き出した。
母星からの通信を受け取ったみたいに、自分の中のもの書きが囁いた。
他人ノ言葉ニ頼ルナ。
他人ノ感傷ヲ盗ムナ。
OK、煩い、わかってる、黙れ。
箴言として受け取っておくから。
知らない方に突き進もう。自分をもっと変えていこう。もっと遠くに、もっと深淵に……
二十年前の自分が、自分にそう課したように。
大きなお屋敷の塀の縁、こぼれるように卯の花が咲いて、五月の月明かりを受けている。
寝静まった町、血液のように車を流す新御堂筋をくぐって側道を渡り、路地に入った。
いつもの通勤路に合流し、ほっとする自分。
引っ越して一年と三ヶ月。ようやく自分の町になってきた。
道は川沿いに曲がっていき、ゆるやかな登り坂になる。
最後の電信柱を丁寧に一周すると、坂の上に小さな瓦屋根が見えた。
一時間ちょっとのはずの道のりに二時間半かけて、我が家に到着した。
蛍光灯を点け、薬缶で湯を沸かしながら、いつもの癖でノートPCを起動させる。
見慣れたWindowsXPの起動画面、急速に戻ってくる日常に取り残されて、手のひらにはまだ、夜道に立ち並んだ無機物たちの感触がある。
少しだけ気恥ずかしい。
「ああいう夜もあったなあ」と、思い出すんだろう。
今ではない、いつかにつながった未来に。