わたしの小さなたからもの(『マイマイ新子と千年の魔法』遅ればせながら礼賛)

え~、涼元です。
完全放置状態でしたが、書きたいことができたのでサクっと。

『マイマイ新子と千年の魔法』

先日、大阪は九条のシネ・ヌーヴォにて鑑賞、大満足でした。
実は観たのはこれで二度目。茨木のシネコンで観たのが最初で、追加上映が決まった瞬間にリピート決定。三度目も都合がつき次第、観に行っちゃうと思います。同じ映画にこれだけハマったのは、まだ十代の頃に静岡ミラノで観たノスタルジア(涼元的バイブル)以来。

初見の印象は、「となりのトトロだと思ったら、じゃりン子チエだった」。
「ご家族みんなで楽しめる」のともちょっと違う。「親が子供に見せたいアニメ」の教条臭さもない。もちろん、いわゆるアニメオタク向けからはうーんと遠い。
子供のための映画ではないかもしれない。
むしろ、かつて子供だった大人のための映画。

スクリーンを等身大に駈け回る、昭和30年代のおてんば娘とやんちゃ坊主たち。
見えないものを見るまっすぐな瞳、それを支える優しい眼差し。
凝っていると感じさせないほどに凝りまくっているカメラワーク。
溜息が出るぐらい美しい薄暮や星明りの表現。
わずかな色の欠片をきっかけに、1000年前の世界と50年前の世界を奔放に行き来する構成。
時を経て変わったものと、変わらないものの対比。
あれほど大きく、頼もしく見えた大人たちが背負うしがらみや弱さ。
世界の矛盾や理不尽、麦畑を抜けた先にある裏町、酒と香水では隠せない『死』の匂い……

とまあ、パーツ単位で見所を並べ立てるだけなら、いくらでもできるんですが。
決定的な『良さ』が説明しにくいんです、この『マイマイ新子と千年の魔法』は。
職業柄でも性格柄でも、大抵の事象は「ここがいい」「ここがアレ」と理屈っぽく吹聴する自信があるのに、それができない……というか、する気にならない。

なぜか?
あれこれ考え続けた結果、良さを説明できなくても、「なぜ良さが説明できないのか」はわかってきました。

涼元仮説:
『マイマイ新子と千年の魔法』は、作り手が伝えたいこと……というより、感じさせたいことをきちんと把握した上で、その意図通りに作られた映画だから。

感じることは当然、一人一人によって変わってくるし、それを誰かに伝えようとすれば、肝心なところがぼやけてしまう。
同じ思いを反芻し、共有してもらうには、本編から受け取る以外にない。
だから、何度も観に行ったり、周りに勧めたくなってしまう。

子供の頃に隠した宝物。
本当に、そんな感じの映画。
偶然に見つけることができたそれが、まだちゃんと輝いているのが嬉しくて、時々そっと取り出してみたり、気の合う友達に見せたりして、これからもずーっと大事にしてあげたい。
この映画を好きな人はみんな、そんな気持ちになってるんじゃないかなーと思います。


娯楽至上利益至上の現在でも、主題やメッセージに忠実な創作はあるけれど、そのさらに奥にあるモヤモヤっとした感覚をそのまま渡してくれる作品は貴重です。
ただ……「良さを説明しにくい」というのは、生臭い言い換えをすれば「セールスポイントが明確でない」ってことのわけで。
プロモーションはさぞ大変だろうなあと思うし、実際、興行的にはちょっと厳しいご様子。
でも、これほどの佳品が埋もれてしまうのはもったいなさすぎる……

というわけで、微力ながらえいやっと思うところを書いてみました。
涼元日記をチェックしておられるような方なら、完全に必見です。というか、四の五の言わずに観るべし。
なんかの間違いで迷い込んで来ちゃった方も、せっかくだからぜひお近くの映画館に……と言いたいところなんですが、すでに上映館がかーなり限定されている状態です。
今まさに草の根で支持が広まっているところですから、公式サイトで上映情報をまめにチェックするのが吉。
上映館を増やすための署名運動もあるようですので、名を連ねるのも一興かと。
ぶっちゃけ、もう一度大阪で上映していただかないと、横浜あたりまで行くことになるので、個人的にも上映拡大希望。大変希望。

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このブログ記事について

このページは、涼元悠一が2010年2月21日 00:00に書いたブログ記事です。

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